I'm GOD'S child
この腐敗した世界に堕とされた~
腐ってるのはこの空間だと何度となく思った閉鎖病棟44泊45日(40万円)
こういうやつ病院に入れろよ!あ、ここが病院か!逃げ場がない!詰んだ!
なんてことを思い思われ過ごしていた。
閉鎖病棟45日ツアーで存分に鍛え上げられた鋼のメンタルとなった。
統合失調症おばさまの罵声にさらされ続ければ何ともなる。
実際、以前のクソブログを書くような負の感情はほとんどなくなった。
Sは初日あんたイケメンねと寄ってきた。いや目玉腐ってるんじゃねえの?とは思ったがここはじゃぱりぱーく。いろいろなフレンズがいるのだ。おっそうだな。
次の日部屋から出るなりうるせえぞこのクソ野郎と罵声を飛ばして来た。は?なんだこいつ。やばい。かかわらんとこ。
さらに翌日、わざわざ近づいてきて罵声を飛ばしていくのである。
俺のファンかよ。
それがしばらく続きテレビから電波を受信するたびに怒号が飛ぶ空間にいた。
その後またイケメンと寄ってきては罵声を浴びせかけられる日々を送った。
GOD'S Childは自殺未遂したけどさっさと殺せって面と向かって言われたの初めてだったよ、びっくりした。
あと脳内の思考を読まれていきなりうるせえって言われた時もびっくりしたよ。
思考読まれてたらナースさんとのえっちな妄想まで読まれちゃうじゃないですかやだー。
色使いされた時も困ったよ。さすがに50過ぎたおばさまはボールゾーンです。アイドルじゃないから部屋まで押しかけてくるのもやめちくり。
さながら刀鍛冶のごとく打っては冷水で冷まし強度を増した俺のメンタルは悟ったのだ。
彼らには彼らなりの生き方があるのだと。僕がどう思っても仕方ないのだと。いや変えられらないなら自分が変わるしかないでしょ。無理なもんは無理。
喪主をしたくない話
祖父が死んだ。敬意を払って亡くなった、とも言うべきか。この辺の話も後々したい。
本題に入るが、私は喪主がしたくない。家族仲が悪いとかそう言うものではない。個人的見解の中で単に喪主がしたくないだけである。
葬式に列席した最初の記憶は中学生の時、曽祖母の式だ。曽祖母と会話をした記憶もほとんどなく、ただ死んだ後の処理のように感じていた。
この時の親族の会話の一部が今回の表題に繋がる。
「お前が喪主をするような時もいつか来るんだ」
喪主。
曽祖母の式では祖父が務めたそれである。
果たしていつのことだろうか、めんどくさいのではないか。当時のまだ思春期真っ只中の坊主はそんなことしか考えていなかった。食べ盛りと言うことで通夜振る舞いは美味いものがいい、などと考えてた。今でも考えている。
しかし喪主である。主なのだ。
まったくもってしたくない。筆頭で故人が故人であることを証明しなくてはならない立場だからだ。
私はまだ曾祖母も祖父も亡くした憶えはないしこれからも亡くしたくはない。
死から目を背けているだけかもしれないがそれでも誰かが死んだと声を張り上げて歩く立場にはなりたくない。そう思いながら祖父や祖母を想った。
生まれるのさえ親の都合で
誕生日である
誕生日で割といつ着けられた種かわかるものだ。9月頭の生まれが多いのは12月のソレが圧倒的大多数の理由であろう。3月生まれが多いのはジューンブライドで六月に結婚したから、なんて風に結構な理由で親の性格がわかる。
私は8月生まれなんて言う中途半端な日に生まれている。なぜか。親の都合である。まったくこういうところですら親の都合で生まれてくるんだから子の都合で少しでも早く学校生活に適応できるよう4,5月に生まれたいものだ。
まあそれでもここまで出資して育てていただいたことには感謝している。
生んでくれてありがとうとはまだ言えない。
個人的な その2
その1を読んで欲しい
はいじゃあ夜桜編始まります。
17に崩壊するメンタルは確定事項。高校入学までを書いた。
みんな楽しいメンタル大崩壊のカウントダウンが始まる
時は15の春。高校はどう?と聞かれたら「窓から見える景色が違うかな…」とかなんとかほざいてた糞ガキが僕である。私である。
吹奏楽部の呪いはここでもあった。中1の再来である。人数が少なかろうが経験者であろうが僕はあなたたちが上に立ってやる音楽はやりたくない!って思ったので丁重にお断りしました。初日に先輩数人で教室訪問すんのやめれ。
んで軽音部に入りました。なんでだろうね。オタクだからけいおん!に惹かれて中2からギターやってたせいかな? まあやってみたかった。それだけだったのでこれも長続きしなかった。
結局1年生秋から始めた化学部に落ち着いた。ここはのちの心のオアシスとなりまた地獄となる。
以上が部活の変遷である。もっとめんどくさいけどこれくらいでいいや。
そんなことより人間関係である。やばいのである。
中学から言っていた学習塾の女子から熱烈アタックを受けに受けて心が折れそうになっても耐えた。そんな女子は1年の夏休みから 学校に来なくなった。いじめである。最後の僕の一言でメンタルをキめたそいつはビデオ通話でリスカを始め僕の心をついにへし折ることに成功したのである。付き合ってはいない。
心が折れそうになってもなぜ耐えれたのかというと別に彼女がいたのだったがそいつも統合失調症でイかれて破局。1年冬にしてこの有様である。
二年になりツイッターを始めイキリオタクと化した僕はネット恋愛というやつに手を出し次々と地雷を踏み抜き自死。ここはマジで黒歴史だから書かないよ。
三年になりやっと現実を見据えたが時すでに遅し。地雷原の真ん中でなく一匹のヒキガエルと化したのである。無理でしょ。
んで二年冬からメンタル大爆死してOD大好きお薬でラリって運良く死ねればいいやみたいなことしてた。さっさと殺せよ。
精神科も通ったけどボーダーでもないし年頃はみんなそうだと言ってきかない。18そこらの男がみんなこんな訳なかろアホか医者。
結局自頭でごり押して地方国立大へ進学をキめる。ここもうんこだった。
以上高校編でした。
金で愛は買えないが
愛で金は買えるの?Twitterで言ってたw
『輪舞 - revolution』は良曲だから聴いて
そんな話だ
男女の愛においては金と愛というのはよくある話なのでここで書く必要もないだろう。そもそもそんな体験がない。
今回書くのは「親子」の愛と金だ。
ここからは親の愛を受けたが親の思っている通りに受け取れなかったクソガキの話である。
今の状況として。
1度飛び降り自殺のギリギリで我に返りそのまま休学したあの時に今までの全てが、自分の身に起こったと感じてない状況にある。
高校でメンタルやられたあたりから記憶が曖昧だし体は20過ぎかもしれないけど3歳くらいの愛情とかの求め方をしている。びょうきじゃん?
中学小学の親にされたことなんて部活サボって時刻表投げつけられたくらい。
本当に覚えてないが殺されてないのできっとまだ愛されていたのだろう。
よって愛情とかがわからん知らん。「愛した」と親は言えども覚えなし。そんな日々である。クソ親不孝なので一刻も早く自死すべきだと思っている。
今回いつになくメンタルがやられてしまい愛に飢えている。優しく…せめて優しくしてくれ世の中…。
そんな中、親は言うのだ。「俺と母さんは、私とお父さんは、お前のことを愛している」と。
あいあいあい嘘乙!!!!!!!!!オラ!!!!!!!!!殺してくれ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
人生
人生の実績解除
いわゆるクエストクリアである。
私がそう言ってるだけであって普通の人は将来の夢とかやりたいこと、になったりするのだろう。
日本人の人生のテンプレというやつがあるだろう。地域や価値観によって変わるだろうが私の中では小中高大を卒業、結婚、出産、育児、子供の結婚式に親の葬式と、まあこんなものだ。
この事を書こうなんて思った時はそのイベントの直後だったのだがいい感じに纏まらずこねくり回してたらここまで遅くなってしまった。
さて自分の人生を振り返ってみるとなかなか普通とはいいがたいものであるが、よく回りも見ていると周りも周りで大変な生き様をしている。十人十色百人百様である。
普通とは何か。
ラーメン屋で普通といえば成人男性の平均的な1食の量が出てくるし
JKがそれフツウっしょ!とか言ってくれば彼女の常識の中では至って平凡で自然な行為である事を示す。
普通の生き様というものは存在しないことに気づいた。
故に私は声を大にして言いたいのだ。私は普通の生き方がしたいと。
贅沢な夢だと思う方もいるかもしれない。
夢くらい贅沢したっていいじゃないか
起きたら集中治療室にいた話
夢の中というのはどんなことも起こるのだ
だから一凡人の私が大勢の男の人から私自身について詳細に語られることだってありうるのだ。
それが夢でなかったとしても…。
事の発端は六月末。目が覚めたら集中治療室にいた。ここに来た経緯はあまり覚えていないがここにいることがどういうことか私は知っている。
私は死にかけたのだ。
病名はつかなかったが乖離症状であった。
つまり私は私自身に殺されかけたことになる。自殺とはまた違った感覚に恐怖と少しの好奇心に支配された感覚のまま私は診察を終えICUを後にした。
さて、私が集中治療室で目を覚ましたところからをまず話したい。
目が覚めると真っ白な高い天井と動かない体といくつかの体から延びるチューブ。
近視ゆえに時計はよく見えなかったが時計の針が両方とも左側にあり窓の外が明るいことから午前中であることは推測された。しかし日付がわからない。
ナースコールらしきボタンを握らされていたので某人型決戦兵器に乗った主人公のごとく動けと念じてやっと動いた親指がナースコールのボタンを押す。
私が寝たはずの日より二日後の日付を教えられた。
なんかやばいことになっているらしいがなんもわからない。何をやっていたのかわからないしそもそもこんなとこICUにいる時点で何かやべえことはやってるはずなんだけどもわからない。ていうかここ自分の大学の病院やんけ就職どうしてくれるんだ自分。という思考に埋め尽くされる脳。
しばらくすると両親が入ってきた。なんか頭覆うやつとかめっちゃつけててそんなことまでして私に会いたかったんかとか考えていた。今思い返すと失礼であるがイカれた奴の思考回路ということで勘弁してもらいたい。何か一言二言しゃべった後すぐ戻っていった。自分が追い返したのかもしれないがその辺は覚えていない。いつの間にかいなくなっていた。
また頭がぼーっとしてきたので寝た。寝ていたところを起こされた。寝てるところを起こされるのが一番嫌いなタイプなので非常に機嫌が悪い。精神科医が来たということらしい。しゃあねえなあと起きるとまた両親もいた。まあ自分こんなんだしそんなもんかと思い話を聞いた。
まず自分は急性薬物中毒と電解質異常と肝機能障害だそうだ。なるほど服薬自殺か。と冷静だった。
夕方ごろ119番通報があり事件性がありということで救急隊と警察が割といい人数来たらしい。なぜ事件性ありかというと以下の記事を読んでほしい。
夢のように感じた記者会見は大勢の救急隊と警察官に囲まれたことであったことがわかった。
警察や救急隊に生きづらさとこのまま死ぬのだという話と生きたいという話をしていたとカルテに書かれているよと精神科医は言う。
あとは死ぬ前にあなたと話しておきたいと言った人がいるということしか記憶がない。それが誰かも覚えてないが。
それはいいとして私は一人暮らしである。救急の通報は誰がしたのかという疑問が残る。まあ結論は出ているのだがそれは認めたくなかった。
自分で死のうとしておきながら自分で救急通報ってダサすぎるでしょ…。
結果として一時的に三人の人格が出ていたということだ。今の私。自殺した私。自殺を止めた私。うーんこれはやばいなと思う。今まで一人で生きていたつもりだったがこんなことになるとは。
好奇心もあったが恐怖が打ち勝ったので医者からの入院の勧めにも乗った。
精神科の入院には任意、医療保護、措置の三種類が存在する。詳細を書くほど時間がないので個々で調べてほしい。私は任意入院であった。個々の入院形態によって後の人生が変わってしまうことすらあるのだ。
ここで外出許可時間が終えそうなのでパソコンを閉じる。入院生活のことについては退院後にまた書こうと思う。