あれ
夜が明けない 夜が明けない
朝が忘れ去られ 闇が日常になる
あたりまえが消えた時
在るのはあたりまえが消えたあたりまえの日々
ニンゲンは忘れられたときに死ぬという
もう会えないニンゲン達は 死んでしまったと同義であろう
歩く僕の 半径85センチメートルが
僕の世界だというならば
電子の海の向こう側 君もあいつもあの時も
きっと零れた 虚構の現実なのだろう
時々刻々と日々は過ぎ あの日の僕らはもういない
喧々囂々と話す僕らは もうあの時の僕らじゃない
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最近の僕の中のトレンドらしいですね、諸行無常。ニンゲンは、結び離れ愛し憎み許し許され生きていくものだから。
人の想いが変わって、人の形が変わって。じゃあ、今きみと話してると思っていてもそれは全くの別人じゃないか。思ってることも見た目も変わってたらそれは他人で、名前は連続性を担保するだけの符号じゃないかって。最近思うことが増えましたね。
愛の言葉を交わして、将来を共に描いたあの夜のあの場所の君はもういない。今の君は僕を憎んで嫌って許さずにもう話してもいないから。君にとって僕はもう死体なんだ。
別に恋人だなんだにもかかわらず友人が、親族が、なんてよくある話だと思うんですよね。
同窓会で会ったら急になれなれしいいじめっ子とか片っ端から勧誘かけ始めた宗教にハマったオタク仲間とか。そういうニンゲンは名前があるから経時変化を体感してしまう。名前も知らず街中で会えば滅茶苦茶に馴れ馴れしい金髪ヤンキーとか、そういう扱いになってしまう。嫌悪感も忘れて友人になるかもしれない。ニンゲンの社会性なんてそんなもん。
正月に帰ったら祖父は僕のことを理解していなかった。幼少期の僕の記憶はあるけれど今の僕は祖父の中では死体と変わらない存在なんだなって。
単純接触効果とかエビングハウスの忘却曲線とかって、割と実体験に現れるんだなと変なタイミングで納得してしまった。
やっぱり大事なニンゲン達には近くで高頻度でお話ししていたいな、死体になりたくないなと利己的な主張をして今回のブログはおわり!!!!!!!!