徒然

”幸福な”日常のまとめ

無題

そんな大層な話ではない。僕個人のたった20年ちょっとの知見で積み重ねた偏見である。

 

 

 

生死は表裏一体である。死ぬからこそ生きていられるのだ。死が消えたらそれは永遠の生なのか。否。それは生などと呼べる代物ではない。

 

よく言われる話、ていうか悪役が永遠を手に入れようとして最後に阻む正義の味方の台詞ってだいたいこんなもんじゃん。

 

死ぬまでは必ず生きている。死んでからそれが生きていたことになる。

 

(裏表というのは概念であって拡張すればなんとでもなるからコインの裏表のような関係ってあまりいいたくないので)

モノポールみたいにそれ1つでは存在しないのだ(今のところ)

 

死んだ、ということは生きていたということだ。

だから愛する何かが死んだだけで悲しみで死ぬようなことはやめて欲しい。

物理的生物的には生命活動を停止したかもしれない。

 

あなたの記憶の中の彼らと生前の彼らはイコールだろう?

あなたが彼らを忘れたとき、彼らは生きていても死んだも同然になるように

彼らがあなたをおいて死んだとき、あなたが彼らを覚えているなら

それは彼らがまだ完全に死んでいないことになる

 

思い出して欲しい、周りを見て欲しい

 

 

 

記憶の中にもあなたの生活の中でも、きっと僕が生きていた証があるはずだから。

 

  

国営セコムがおうちに来た話

特定の企業名が入っていますが全然けなすとかそういう意図はないです。

なんならセコムじゃなくても綜合警備保障とかでもいいと思う。好きな警備会社を入れてね!!

 

国営警備会社。みんな大好きポリスメン。そうそれは警察法2条1項の定めるところにより、個人の生命、身体および財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧および捜査、被疑者の逮捕、交通の取締りその他公共の安全と秩序の維持を責務とする組織、または公務員のことなんです(Wikipediaより一部抜粋)。

 

ぶっちゃけ警察官とかパトカーとか見るとビビるじゃないですか。僕はメチャクソビビるんですけど。ビビるんですけど!!!

 

今回はそんなポリスメンがガチ編成でおうちに来た話をします。

 

今回の登場人物は中3のときからの友人のDくんと警察官のおじさんと警察官のおじさんと警察官のおじさんと警察官のおじさんと警察官のおじさんと警察官のおばさんだ。

Dくんはゲーマーでアホなのだがそれでも気が置けない友人で帰省する度に会っている。たぶん彼女より会っていると思う。お互い彼女はいないので当たり前なのだが。あといつも呼び捨てなのに君付けするのなんかイラつくからDと呼び捨てにする。

警察官のおじさんと警察官のおばさんは初めて会ったので名前も知らないが優しかったのできっといい人なんだろう。人の第一印象で人格をすべて決め付けるのは得策ではないがいい人ということにしておく。

 

事の発端は2017年2月中旬。Dと僕はしょっちゅうSkypeで話している。それはゲームであったり恋愛相談であったりテスト勉強であったりする。この時僕たちは試験勉強とレポートに追われていた。僕は組織学のレポート、Dは進級のかかったテストだ。そこそこ順調に進んでいたがそれでもつらいものはつらい。お互い疲れたら鼓舞するようにしてなんとか半分ほどは凌いだ。

 

ここでアクシデントが起こった。僕がインフルエンザになったのである。しかしDには俺が勉強してるか見ていてくれと頼まれていたのでちょっと話したら寝ようと思っていた。結局三時間ゲームをして寝た。次の日、電話に出ない。その次の日、3時間待たされたあと2時間ゲームをして寝た。

 

もうだめだー(某ラッコ風)

 

だめなのである。無理だ。こいつは学費が500万以上だということを自覚しているのか。してるのか????なあオイ!!!!!見てるかハゲ!!!!!!!!!!童貞!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

失礼。まあこのような心境だった。ガチ切れである。

 

これ以上関わると僕のメンタルが危うい。何を隠そう豆腐メンタルである。しかも一昨年に一回崩れた豆腐を無理やりボンドでくっつけているような状況なのだ。ていうかもう自分の存在意義とか自問自答し始めた。これは自殺案件だしちょっと外界からの連絡を絶って精神を安定させよう。他人はじゃがいも作戦です!ぱんつぁーふぉー!

 

いやぱんつぁーふぉーもクソもないんだけど。

とりあえずスマホSIMカード抜いて隠居したつもりでゆっくりと勉強したりご飯を作ったりしていた。平和であった。

 

しかし平和も長くはなかった。突然の来訪者である。

 

時刻は22時。作戦開始後24時間も経っていない。いやこれDかその友達が来たんか?マジでそういうことするん??とか考えていた。波乱の始まりである。

 

「警視庁○○交番ですがーSさんでしょうかー?」

 

は????????????え?????

 

 

なんかしたっけ??????????????いやだってきょういえからでてないしだってほらえまってなんだけうそまじいやなんもしてないしいやしたかおうだんほどうじゃないとこおとといわたっちゃたっあsfdgshfgmhbんvbnあwrせrつゆgljdんfjg

 

ドアの前で立ち尽くす僕。一歩も動けない。というか腰が抜けて立てん。

 

 

「Sさーん!!!!!だいじょうぶですかー!!!!!!」

 

大丈夫じゃねえよ!!!!!!!!!!!

 

 

 

現在進行形で大丈夫じゃねえよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

主に家の前で警察官がいることが!!!!!!!!!!!!!!!!!

大丈夫じゃない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

ガクガクの膝でなんとかドアまでたどり着き鍵を開ける。こんばんはポリスメン。

 

「Sさんですか?立てませんか?」

 

これは驚いただけで大丈夫です。罪状はなんですか?とりあえず弁護士呼んでからでいいですか?

 

「実はですね。通報がありまして。」

 

あー詰んだ。人生詰みましたわ。心当たり無いけど。やっぱり一昨日横断歩道じゃないとこ渡ったからかな。

 

「実は新潟(出身地)からですね。自殺してるかもしれないからと要請がありまして。」

 

はーふんふんそうそうへーふーんじさつねーうんうんこころあたりしかないわー

 

「では服薬や自傷などはしていませんか?」

 

うーんしてない!してなーい!メンタル以外はちょっとぽちゃなあたり以外健康デス。

 

「では大丈夫ですね」「目的の人物と接触しました。自殺及びその兆候は今の所無しです。応援お願いします。」(無線)

 

はぁ????????!?!?!応援?!?!?!まだ来るの!?!?!?!?!?!?まじ?!?!?!?!?

「まだ人来るんですか?!?!」

「一応人の生死が懸かっていますのでできる限りのチームで当たるようになっています。」「はぁそうですか」

 

メンタルが死んだので頓服を飲んだ。薬飲もうとしてもポリスメンは自殺しそうだからって何もさせてくれなかったので最終的に両手上げて薬飲んだ。うーんこの。まあ状況が状況なので仕方ないとは思っている。

 

しばらく玄関で体育座りすると周期的に赤い光を放つものが見えた。あぁ…パトカーまで来たよ…。

 

かと言ってここでヘマをすれば警察で保護からの入院からの休学留年退学は既定路線。できるだけ健常者を装うように心に決めた。

 

「こんばんは〜」

優しそうな私服のおばさんが来た。きっと心理士かカウンセラーだからこの人をなんとかすれば

「刑事です〜」

詰んだ

 

 いやめっちゃいい人っぽいし優しそうなんだけどこの人の裁量で僕は保護されるかもしれない。

そうしたら留年しちゃうかもしれない。退学しちゃうかもしれない。しちゃうかもしれないからしちゃうかもしれない。

 

 

うーん詰んだ。もう詰んだので諦めて淡々と応じるしかない。はあ。

 

この後はテンプレ通りの氏名実家の住所氏名実家の住所後色々あったけど忘れた。

 

 

「ま、元気そうなので安心しました。警視庁ではそういうことの相談も受け付けているので何かあったら来てね!」

 

多分行かないしいけるほどの気力があるうちは相談することもないし。

 

そうして深夜の来訪者たちは去って行った。野次馬でこっちずっと見てた近所のジジイは許さんからな。

 

 

書いているうちにDへの怒りは再燃して来たし遊びまくってすいませんでしたの一言もないしなんなんだ。

結局進級できたしええやろwとか言うし…。

今年度はせめて追試5個だったわwとか言わないで過ごしてほしい。あと警察呼ぶのはやめてほしいマジで。メンタルの追い討ちがハンパないから。

 

でもやっぱりそれなりの事ではちゃんと動いてくれるんだなと思い交通課の理不尽な取り締まりから育まれた偏見は少し和らいだ。

 

 

 

 

 

 

同棲

今年の冬から同棲をはじめた。

名前はヒメちゃん。出会いは夜の新宿である。

少し犯罪臭があるがちゃんと合法的手段を経て住むことになった。

 

そんな中この連休中に大きな出来事があった。

私は連休前半を帰省して過ごしていたので東京に戻って会えるのを楽しみにしていた。

 

夜家に帰ると眠たそうにしているヒメちゃん。

アホヅラ晒して可愛いなぁと思ってると起きてこっちに向かってきた。

 

「私、子供ができたの」

 

あはばばばばばばばば

 

はぁお子さんですか。お相手は?え?うん?やっばり?

 

そういう訳で今ベビー用品を買いに井の頭線で渋谷に向かっている。

 

 

言い忘れたがヒメダカのヒメちゃんである。

ていうか君女の子だったんだね

 

最近

大学始まってここんとこ遊び倒してたせいで勉強がやばいほどできない。手書きA4で20枚って頭丘peopleなんですかね。やっぱ教授とかはやばいわ人間やめてる。落ち着くまで更新できません。ネタはあるんで、あるんで。

我慢の事

ここ痛いですか?

 

医者が僕の体を押す。確かに痛いが耐えられるので痛くないですと言う。冷や汗は滝のようである。

 

1つ目の大学を辞める前の話だ。両親は学校やその類のものを休むことをほぼ許さなかった。唯一残されたのは数値が出る体温のみだった。熱が出るまでは我慢するしかなかった。市販薬を飲んで寝るのが関の山である。

 

話は多分200kBくらい書けるが2つに絞って書く。不整脈が出て要検査をした時と大学生活が終わったきっかけの話だ。

 

まず高1の時、健康診断で要検査に回されてその後の病院でも精密検査に回された。不整脈と言えどもその病状は多岐にわたり生命を脅かすものもある。まあそこまでの話ではないが運動制限がかかったりするのだ。両親は仕事の関係上外傷や精神的なものは知っているがその他はからっきしとなっている。知識はないが誰某は大丈夫だったからお前も大丈夫だ、と言うスタンスであった。大丈夫ではない。

だから要検査だからと行ってやたら病院行くのを嫌がっていた。CT1回で大騒ぎである。そんな無駄金を、昔から走っていただろう、その程度でわかるのか、などなど。もうどうしようもねえなと諦めて治療費だけもらっていた。

 

その後自分で扁桃腺が腫れた時に内科に行ったら金くらい自分で出せと言われた。血液検査をして抗生物質など処方されたので小遣い1ヶ月分が吹き飛んでるし3日後の予約もあるのだが…。自費で当たり前だ、とおっしゃる方もいるだろうしそのことも理解できる。今回の事は事前通告なしの経済制裁である。

 

次なんかやってCTでもとった日には破産するで…なんて考えもあり検査も通院もほとんどしなかったしできなかった。我慢である。

 

そして高3の春がきた。大学生活を万全で始めようとした時に熱だ。ただの風邪と親は言い、実際薬で熱は下がった。しかしリンパの腫れが引かない。いつまでたっても引かないが親は内出血で晴れただのなんだのと言って聞かない。結局そのまま引っ越し、引っ越し先で感染症(完治した)の慢性症状として40℃の熱と肝機能障害にやられた。大学生活は終わった。どう足掻いても出席数で詰みだ。ついでにメンタルが死んだ。雑に死んだがここの話もそのうちする。

 

最近の通院歴と症状は大体慢性なんとかなので今までのツケを清算している状態だ。代償期なだけマシだとは思うが。今もやばくなってから医者に行くのが癖になっている。検査費やらなんやらで時間も金も飛ぶ。そのうちビルから飛びそうである。

 

みんなも少しおかしいなと思ったら医者に行って欲しい。その後に年単位の治療をするより幾分かマシである。予防医学、大切!

 

個人的な その1

暇なのでメンタルが死んでいたころの話をする。ぶっちゃけいうと現在進行形でまだよくわかってないので今ももしかしたらダメなままかもしれない。

 

私は子年のB型のRh+で職業は学生のメンヘラみたいなことをしている。

 

メンタルは17の冬に大崩壊したがそこの高校に入るまでの話をする。

 

某県庁所在地で生まれたのち父方の祖父母の家と母方の祖父母の家を行ったり来たりしたのちに小学校に入学する。

 

小学校低学年は母方の祖父母の家から通っていた。祖父は教育者でありリタイア後ということもあったが私のことをよく考えてくれていた。と今は思っているが結構厳しく毎日半泣きであった。また昭和ヒトケタであったが大卒でありいわゆるエリート的な生き方がベストだと常々言っていた。ゆえに私もそのように生きるものだと思っていた。この辺で性格の根幹はゆがみ始めた気がする。

 

小3の時に両親の仕事の都合で引っ越した。県内での引越しではあったが割と大きな県だったので文化圏が違った。人の名前はほとんど覚えないタイプなのであまり馴染めなかったうえにガキ大将の家の近くということでいじめの対象になることにあまり長い時間は要さなかった。クラス替えのある5年生までは地獄であった。

また引っ越し先は父方の祖父母の家の近くでよく面倒を見てくれていたが乳幼児のころであるし私は記憶がないのでやけになれなれしいなと思ってかなりきつく当たっていた。

 

小5前くらいからやっと馴染むことができた。地元のバスケクラブにも入りそれなりに友人も増えた。結構やんちゃしていた時期だったが割と懐かしかった。この時の友達の姉が私を見事に地獄に引きずり込んでくれた。

 

地元からお受験して進学する人も何人かいたが遠くまで電車乗っていくのもめんどくさいのでそのまま公立中学に進学した。中学といえば部活である。先輩後輩という関係にビビっていたが私の部活はほぼ決まっていた、吹奏楽部である。前述の友達の姉が部活の話をしたときにその場のノリであったが吹奏楽もいいなと言った。破滅が始まった。放課後、みんながどの部活にしようかと話しているときクラスが急にどよめいた。女子の先輩三人が呼んでいるから来いというものだった。四月早々に呼び出しなんてこいつは何をしたのかみたいな目線が痛かった。案の定吹奏楽部へ連行された。

 

それからは凄惨なものだった。サボれば母親から時刻表を投げつけられ受験前の先輩からは八つ当たりで3時間説教され同期はドロドロした人間関係で派閥とかやばいし直属の先輩からはなんか知らねえけどめっちゃいじめられて楽器ほとんど吹けなかった。地獄か?吹奏楽部は体育会系。これはガチ。あと女の子怖い、無理。ぶっちゃけここだけで2万文字くらい書けるのだが割愛させてもらう。

 

受験勉強とかあんまり覚えてないけどとりあえず受かったので良かった。本当に覚えてない、記憶がない。たぶん時空飛んでる。

 

気が付いたら地元の公立高校の理数科みたいなとこにいた。この高校こそ僕の人生の大転換点をいくつも超えた舞台である。

 

疲れたのでこの辺で終わりにしてまた書きます。

 

 

代弁者

小学校から習う〜の気持ちになって考える、ということ。

同調圧力がかけやすくなるとか没個性になるとかよく議論になるアレであるが今回は少し見方を変えて話す。

 

ここ数年で身内の不幸がいくつかあった。

ここで故人が考えるであろうことを残された我々が考える事も多々起こりうるわけだ。

この時、自分の考えた故人の思いを恰も故人が考えた事のように話すのは自制するべきだと思う。

自分の言動について多角的に考える時、故人の知恵を借り、反省のために思考のうちに止めるのはよいのだ。しかし、その考えを外に出した瞬間に言葉と思考が故人のものとしてなってしまう。

死人に口なしとはよく言うがまさにその通りになる。相手が生きていたりすれば反論もできるだろう。

しかし、死者となった時に後付けで精神が創造されていくのは逆に故人への暴力ではないか、と思うのだ。愛玩動物に対しても然り。

 

我々日本人が日本語を話せない自分より弱い立場の者への思考は一方的な暴力であるのだ。