あなたへ
あなたは私の幸福であり私から幸福を奪った張本人である
なんて書いてはいるけれど最後に拒んだのは自分だったなぁと思っている
要は告白されたけどごめんなさいしちゃったって話である
自慢か?!?!?!?!?自慢だろおおぉぉん?!?!?と思われてる諸兄について
結構ダメージ喰らってるんで自慢ではないです。表に出さんと死にそう。
割かし長い付き合いの女の子(以下S)と初めて会ったのはTwitter上である。
オフ会もちょこちょこしたし通話なんて三桁回くらいしていた。もう何年も。この辺話すと惚気だろおおん?!?!?!?!ってなるからしない
そいで年月は経った…告白
ぶっちゃけ自信がなかった。自分の代わりなんてごまんといるしそれぞれが僕の上位互換みたいな存在だと思っていた。
そんな僕にわざわざ付き合ってほしいなんてって思ったしそう思った自分が嫌になった。
Sはめっちゃいい子だしこう僕なんかに似合わないでしょってかんじで振った。
振ったという責任感のでかさとかこれまでのやり取りとか思い出しておおおぉんってなってる。とてもつらい
幸せだって歩いて来たいかもしれないだろ?!?!?!?!
果報は寝て待てっていうし俺は寝る!!!!!!
つづき
7月
初旬から入院していた。季節性情動障害。SAD診断。やっと楽になった。
病院としてはいい金ヅルなので入院は延び延びになった。
8月
彼女に振られるがもうクソどうでもいいしどうでもいいわ引きずってないわ別にこの両手から零れそうな程君に渡す愛をだれに譲ろうとか考えてないです。
中旬に退院。あと某国家試験を受験。受かったら詳細書きます落ちるんだけど。
9月
新学期、自己愛性の人が辞めてて笑ったざまーみろ(私怨)。同期はよく迎え入れてくれました。ぼっちではないです。
10月
順調
11月
SADが本気出してきたので何日か休んだけど復帰。メンタルも頑丈になった。某国試は落ちてました。
12月
年末はっやとか考えているうちに年末になってしまっている。クリスマスコトシモヒトリキリ…ァァァ
幸せは歩いてこない
だからと言って歩いて行った先に幸せがあるとも限らないだろう
そういって立ち止まっては幸福が過ぎ去っていきそして何も言えないまま冬が来てしまった。
クソどうでもいいが著者は雪国の生まれである。だからと言ってなんだというところだろうしクソどうでもいいことだと思ってもらえばいい。
本題、そう、なんだっけ、今年の総括みたいな?感じで行こうと思います。今考えた。
1月
SAD診断前、辛すぎたが期末試験が迫っているので勉強しに死ぬ気で大学に通っていた。元々カノと縁が切りたいが受講者2名なので縁を切ると過去問が手にはいらないという地獄を味わっていた。
2月
インフルエンザで実習に参加させてもらえなかった。自己愛性人格障害の同期がいたがそいつと二人で再実習した。縁を切った。ざまあみろばーか(私怨)。
3月
祖父が亡くなった。死ぬってなんだろうね。割といろいろ考える機会を祖父は残してくれました。あと進級しました。友人のNも進級していた。陸自じゃなくてよかったね。
4月
クソブログを始める。多分一番黒歴史。見てもらえればわかるけどまだ余裕があってまだキラキラしていた何かがあった。
5月
田舎なので成人式がこの時期にある。特定班ヨロwそんな興味もないか
まだ大丈夫だった。まだ大丈夫。まだ。
6月
無かった、いいね?
SADが一番やばかった。大学にいけず留年決定したし集中治療室入ったしゴミ。ゴミ。
続く
I'm GOD'S child
この腐敗した世界に堕とされた~
腐ってるのはこの空間だと何度となく思った閉鎖病棟44泊45日(40万円)
こういうやつ病院に入れろよ!あ、ここが病院か!逃げ場がない!詰んだ!
なんてことを思い思われ過ごしていた。
閉鎖病棟45日ツアーで存分に鍛え上げられた鋼のメンタルとなった。
統合失調症おばさまの罵声にさらされ続ければ何ともなる。
実際、以前のクソブログを書くような負の感情はほとんどなくなった。
Sは初日あんたイケメンねと寄ってきた。いや目玉腐ってるんじゃねえの?とは思ったがここはじゃぱりぱーく。いろいろなフレンズがいるのだ。おっそうだな。
次の日部屋から出るなりうるせえぞこのクソ野郎と罵声を飛ばして来た。は?なんだこいつ。やばい。かかわらんとこ。
さらに翌日、わざわざ近づいてきて罵声を飛ばしていくのである。
俺のファンかよ。
それがしばらく続きテレビから電波を受信するたびに怒号が飛ぶ空間にいた。
その後またイケメンと寄ってきては罵声を浴びせかけられる日々を送った。
GOD'S Childは自殺未遂したけどさっさと殺せって面と向かって言われたの初めてだったよ、びっくりした。
あと脳内の思考を読まれていきなりうるせえって言われた時もびっくりしたよ。
思考読まれてたらナースさんとのえっちな妄想まで読まれちゃうじゃないですかやだー。
色使いされた時も困ったよ。さすがに50過ぎたおばさまはボールゾーンです。アイドルじゃないから部屋まで押しかけてくるのもやめちくり。
さながら刀鍛冶のごとく打っては冷水で冷まし強度を増した俺のメンタルは悟ったのだ。
彼らには彼らなりの生き方があるのだと。僕がどう思っても仕方ないのだと。いや変えられらないなら自分が変わるしかないでしょ。無理なもんは無理。
喪主をしたくない話
祖父が死んだ。敬意を払って亡くなった、とも言うべきか。この辺の話も後々したい。
本題に入るが、私は喪主がしたくない。家族仲が悪いとかそう言うものではない。個人的見解の中で単に喪主がしたくないだけである。
葬式に列席した最初の記憶は中学生の時、曽祖母の式だ。曽祖母と会話をした記憶もほとんどなく、ただ死んだ後の処理のように感じていた。
この時の親族の会話の一部が今回の表題に繋がる。
「お前が喪主をするような時もいつか来るんだ」
喪主。
曽祖母の式では祖父が務めたそれである。
果たしていつのことだろうか、めんどくさいのではないか。当時のまだ思春期真っ只中の坊主はそんなことしか考えていなかった。食べ盛りと言うことで通夜振る舞いは美味いものがいい、などと考えてた。今でも考えている。
しかし喪主である。主なのだ。
まったくもってしたくない。筆頭で故人が故人であることを証明しなくてはならない立場だからだ。
私はまだ曾祖母も祖父も亡くした憶えはないしこれからも亡くしたくはない。
死から目を背けているだけかもしれないがそれでも誰かが死んだと声を張り上げて歩く立場にはなりたくない。そう思いながら祖父や祖母を想った。
生まれるのさえ親の都合で
誕生日である
誕生日で割といつ着けられた種かわかるものだ。9月頭の生まれが多いのは12月のソレが圧倒的大多数の理由であろう。3月生まれが多いのはジューンブライドで六月に結婚したから、なんて風に結構な理由で親の性格がわかる。
私は8月生まれなんて言う中途半端な日に生まれている。なぜか。親の都合である。まったくこういうところですら親の都合で生まれてくるんだから子の都合で少しでも早く学校生活に適応できるよう4,5月に生まれたいものだ。
まあそれでもここまで出資して育てていただいたことには感謝している。
生んでくれてありがとうとはまだ言えない。